「しきしま♡ときめきプラン」って何?

しきしま♡ときめきプラン」は、しきしまの地域づくりの道しるべであり、しきしまの家プロジェクトの根幹を成すものです。2010年に初めて策定され、以降5年ごとに見直されています。

2010年当時、豊田市内298の自治区の中で初めて策定された「地域ビジョン」として、話題を呼びました。そして、足助地区、下山地区など、山村部を中心に多くの自治区が「しきしま♡ときめきプラン」をモデルとして、同じように地域ビジョンを策定するようになりました。

※地域ビジョン=住民自治組織が、将来のめざす姿やその実現に向けた取り組みをまとめたもの

かつては、広報紙の配布、夏祭りや敬老会などを担う組織であった、敷島自治区。それがなぜ、このようなものを作ることになったのでしょうか?その紆余曲折のストーリーについて、本稿でお伝えしたいと思います。

「こんなことなら合併なんかするんじゃなかった」

この話は、2005年「平成の合併」の頃までさかのぼります。当時、豊田市と合併した6町村のうちの1つである旧旭町は、市内で最も過疎化が深刻な地域でした。

引用:ようこそ豊田へ | ファースト暮らすとよた

「財政豊かな豊田市と合併すれば、過疎にともなう様々な課題が解決する」……旧旭町の住民は、そう信じて疑いませんでした。しかし、それは大きな勘違いでした。

市町村合併は、国の行財政改革による「合理化」です。役場の職員数は3分の1に減少。そして、これまで住民サービスとして役場が担っていた事務などが、本来担うべき住民の元に返されたのです。

例えば、老人クラブの補助金関連書類。合併前は、申請書類の作成も、書類の保管も役場が行っており、団体はただハンコを押すだけでOKでした。それが合併後は、作成も保管も住民みずから行わなければならなくなりました。

また、路上に犬猫や獣の死骸が落ちていた場合。合併前は、役場に電話を一本入れればすぐに片付けてくれました。しかし合併後は、住民が自ら埋却するか、焼却場に持ち込まなければならなくなりました。

新豊田市の政策は、「“住民が自ら汗を流して地域課題の解決に取り組めば”、潤沢な予算を配分する」というものです。「地域の課題は役場に頼むもの」と思っていた住民は、「こんなことなら合併なんかするんじゃなかった」と不満を漏らしました。

しきしまに10人の若者がやってきた

合併から4年が経った2009年、住民の不満はピークに達していました。

2009年というのは、リーマンショックにより、職に就けない若者が日本中に溢れていた時期です。そんな折、敷島自治区に、とある10人の若者がやって来ることになりました。それは、国の雇用対策事業を活用した豊田市の「日本再発進!若者よ田舎を目指そうプロジェクト」によって募集された若者たちでした。

2009年、全国公募で選出された10人の若者

この若者たちが、後に、弱りきった旧旭地区のムードを大きく変えることになるのです。

このプロジェクトは「過疎化の進んだ山村集落で、若者たちが、農林業をベースに新しい暮らし方にチャレンジする」というもので、名古屋大学(現在東京大学)の牧野篤教授によって仕掛けられました。10人の募集枠に対し、全国から50人が応募。審査に残った10人の若者が送り込まれたのが、敷島自治区だったのです。

一方、受け入れる側の住民は、複雑な思いを抱えていました。それは大半の住民が、社会の工業化とともに、農林業での自立を既にあきらめていたからです。

住民の中には、現金収入を求めて、自動車関連産業でのサラリーマンに転身した人も多数いました。そして、子弟にも同じ道を歩ませていました。そんな自分たちの選択を否定するようなプロジェクトには、抵抗感があったのです。

長老の言葉を借りれば、当時は「博打(ばくち)と麻薬の選択」を迫られていたと言います。地元に残って、うまくいく保証のない農林業を続ける「博打」か? それとも、サラリーマンとして安泰にはなるが、そこから抜け出せなくなる「麻薬」か?の選択です。

多くの住民たちが選んだのは「麻薬」。それは同時に、村の存続をあきらめることでもありました。

太田町の空き寺と、東萩平町の空き家に住所を移して、農業に取り組む若者たち。

「うまくいくはずがない」

「いつまで続くかね」

住民は、遠巻きに、冷ややかな目でそう見ていました。それもそのはずです。自分たちが既にあきらめている農業での自立を、社会経験も農業の経験もほとんどない、よそから来た若者がやろうとしているのですから。しかし一方で、「自分たちの選択は間違っていたのではないか……」という後悔の念も持ちはじめていました。

「あきらめ」が「希望」に変わった

その若者たちを放っておかなかったのが、マスコミです。

『若者たちの挑戦!』

『過疎山村はよみがえるか』

テレビ、新聞が連日のように報道しました。地域のリーダーや住民にもマイクが向けられ、コメントを求められます。

「彼らに何を期待しますか??」

「地域の将来は明るいですか??」

みな、答えに窮します。合併に失望し、村の存続をあきらめた地域住民に、将来のビジョンなどあろうはずもないからです。一方で、地域を盛り上げようとする若者たちのひたむきな姿勢に触れ、住民の意識に変化が起こるのに、時間はかかりませんでした。

「彼らを失敗させてはいけない」

「彼らのような若者を受け入れることで、地域は復活できるかもしれない」

あきらめは、次第に希望へと変化し、2009年8月に「自治区未来計画」策定チームが自治区長の号令の下、組織されたのです。そこから半年間、密度の濃い議論と、全戸への意見募集などを重ねるうちに、地域の空気感は大きく変化します。

100人の傍聴者で満席となった、プラン2010公開討論会

2010年に行われた公開討論会には、100名以上が傍聴に訪れて会場を埋め尽くし、異様な熱気に包まれていました。そして2010年3月、自治区総会において「しきしま♡ときめきプラン2010」が決議されます。

「若者プロジェクト」で地域に受け入れられた若者は、10人中7人が今も地域に暮らし、敷島自治区はその後、移住者受け入れの先進地に変貌しました。

このプロジェクトは、住民があきらめかけていた過疎山村に、希望をもって移住する若者がいるという事実を示し、敷島自治区が地域の存続に大きく舵を切るきっかけを与えてくれたのです。今は、牧野教授に感謝しかありません。

進化を続ける「ときめきプラン」

ときめきプラン2010」に基づき、空き家活用による移住者の受け入れと、その土壌を作る都市住民との交流が本格化します。

ときめきプランの都市交流事業のひとつ「ガキ大将養成講座」は、2014年に東萩平町で始まりました。これは子どもに農村の良さを原体験してもらうことで、長期的に移住促進を図る施策で、募集開始30分で40家族の定員が満席となりました。

2014年東萩平町で「ガキ大将養成講座」が始まる

ときめきプラン2015」では、移住者受け入れ目標が「2世帯/年」と定められたほか、「自治区は、ときめきプラン推進のための機関である」と規約に明確に位置付けられました。「定住促進部」はじめ7つの専門部が、プランに定められた事業を計画的に推進する組織に進化します。

ときめきプラン2020」では、分野を横断する3つの重点プロジェクトを定め、推進組織が整備されます。「しきしまの家」プロジェクトは、進化してきた「ときめきプラン」の集大成として今、形になろうとしています。

私たちは、クラウドファンディングに挑戦しています。ご支援、拡散をお願いします。

困りごとの相談窓口&老若男女誰でも集える居場所 「しきしまの家」をつくりたい

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