しきしまには、樹齢1000年を超える国指定天然記念物「貞観杉(じょうかんすぎ)」があり、地域のシンボルになっています。
1000年にわたり、しきしまを見続けてきた里の主は、人々の営みをどのように見てきたのでしょう。そして、私たちに何を語るのでしょうか。
貞観杉の生い立ち
「貞観杉」は、平安時代前期(貞観年間859~876)、杉本神明神社の創建時に社頭に植えられたと伝えられます。樹齢1100年。樹高45m、胸高囲11.7m、根回り14.5mは、愛知県下のスギの木としては最大。1944年、国指定文化財(天然記念物)となりました。
2018年9月、おりしも襲来していた台風21号の強風に見舞われ、根元より7m付近の幹から伸びていた太さ最大50cm、長さ10mに及ぶ枝が折れ、前面道路上に倒れ込むという被害を受けました。
住民の暮らしと共にあり、人々に崇められる「貞観杉」の枝。折れた枝は粗末にはできないと、杉板に製材され、氏子らに配られました。「しきしまの家」に併設するカフェ「ふらっとyui」の看板は、この杉板を使用して地元作家が制作中です。きっとご利益があるでしょう。
しきしまの歴史
しきしまには、いつから人が暮らし始めたのでしょう?
最古の遺跡は、膳棚(ぜんだな)遺跡(加塩町)です。先土器時代のスクレーパー(石さじ)が出土していますから、およそ13,000年以前には人が暮らしていた形跡があるということです。
しきしまには、加塩町のほか明賀町、杉本町、大坪町、榊野町、押井町に12の遺跡があり、加塩町の膳棚遺跡以外は縄文時代(13,000年前~2,300年前)の遺跡です。数の多さからも、しきしまは、古代から人類にとって暮らしやすい土地であったようです。
中世(鎌倉時代~安土桃山時代)になって、村落が形成されます。独立した村落は、その象徴として村氏神を造立するのが常であったとされ、しきしまに14ある神社の創建時期がそれにあたります。現在の町内会の営みは、この時代から1000年も続いているのです。
また、中世の遺跡として山城も多く分布しています。東萩平町の御洲原城(おすはらじょう)をはじめ、大坪町、榊野町、杉本町、押井町、太田町に10の城跡が、かつての形状をとどめています。戦国時代には、織田、武田、今川の軍勢がしのぎを削った戦乱の地であったと思われます。
徳川家康の天下平定により、近世(江戸時代)以降、人々の暮らしは安定したものと思われますが、大地震や台風、飢饉、疫病といった天災、近代から現代に至る愚かな戦争などの困難を乗り越えなければなりませんでした。
皆さんはお気づきでしょうか。古代に始まるしきしまの歴史を俯瞰してみると、しきしまは政治経済の中心からほど遠い辺境の山村などではなく、むしろ時代の先駆けを歩んできたことを。「貞観杉」が、村落共同体の営みを創成期から今日まですべて見下ろしていたことを。
貞観杉のつぶやき
人は私を「貞観杉」と呼ぶ
1000年以上にわたりしきしまの里と
人々の営みを見続けている人は、愚かな争いを繰り返しもしたが、
支え合い、助け合うことで
多くの困難を乗り越えてきた今、この国は、新しい時代の入り口にいる
それは、人口減少と高齢化を受け止める時代しきしまの里の人々は、地域を開き、
多様な価値観を持つ若者たちを
同胞として迎えることに成功したしかし、それだけで課題は解決しないことにも気付いている
人と人がつながり、支え合う社会を
再び取り戻さなければならないと縮んでいく社会でも、あるがままで、不安なく、
幸せに暮らす術を見つけなければならないとしきしまの里の人々が描く未来
それは、美しい田園風景のある里
それは、あるがままの自分で居られる里
それは、不安のない暮らしが続く里
それは、小さな生業が芽吹く里
それは、子どもたちの瞳が輝いている里
それは、お年寄りが笑顔で暮らす里
それは、しきしまを愛するすべての人々による、
新たな自治が育まれる里しきしまの里の人々は、描く未来の実現のために
大きな一歩を踏み出した「ちょっと助けとくれん」と気軽に言い合える支え合いの仕組み、
いにしえの共同体の互助の力を呼びもどすことだ「しきしまの家」は、その実現に向けて
人々が努力する場となり心の拠り所となる土を耕し森を守る、体を鍛え地域に学ぶ、
誰もが自分らしくあり、不安のない日常が巡ることを願って「しきしまの家」から始まる未来社会創造へのチャレンジが、
この国の全土に広がるのを見届けること、
それが1000年以上生き永らえた私の使命だ
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